覚えていない

2009.08.15 23:57:23

ロングセラーの絵本「百万回生きたねこ」での作者、画家である佐野洋子さんのエッセイ集、


タイトルは
「覚えていない」。


にじゅうねん位まえに、当時五十代を過ごしていた作者の

「本人すら覚えていない」
エッセイを2006年に編集して発行されたもの。

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2006年に68歳の作者は、五十代のときの文はあおくさいし、バブルなときのだから時勢にあわないし、部数が伸びないのではなど抵抗したらしいです。



なのでアトカキは68歳当時の文章なのですが、まったく同じ人物によって書かれたことが一目でわかる文体(笑)

以下あとがきより。
「恥しいが、五十代はつくづく若かったなあと思い、そして書いてある出来事を私は全部忘れていた」


「そしてよく考えると、私は年月がたっても全く成長などしていないのである」


「書かれた文章が恥しいのではない。私は恥しく生きてきたのだ。 そしてみんな忘れているのだ。」


すごい。みんな忘れていた、文がはずかしいんじゃなくてはずかしくいきてきた、それを覚えていない(笑
)成長していないとすっきり言えてしまう軽やかさに、惚れます(笑)


かっこいいなあ!
復唱してしまいます、「覚えていない」って(笑)


エッセイも面白いものばかりで、爽快です。一見言いたいようにいっているけど、攻撃的ではなく、伸びやかな気持ちになります。
上品ぶらない上品さは、どれだけ率直なものいいをされていても、隠せるものではないですね。
肩の荷がさらりと落とされるかのように、ゆっくり笑える一冊。


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■私が好きなのは、

森瑶子さんが亡くなったあとに書かれた「華やかな荒野を」。
異なる生きざまに不断の密着をしていたわけではなくとも、荒野でバラのように咲き誇ったモリ・ヨーコへの親愛と惜別の想いが綴られています。
ナイーブアートについて書かれた「拙いという美徳」、
山下清らをあげながら、生意気な絵というのがある、など画家としての視点が面白い。
その他、向上心や出世にあまりやる気がでない話をつづった「孤立無縁の昼寝」など。




■また、義援金、という言葉の「援」というじは「捐」 ともとはかかれていたのだそうです。(佐野洋子さんのいとこさん談)
義のためにおかねを捐てる(すてる)のであって、援ける(たすける)んじゃないんだと。


昔の日本の字って、徳が高いんだなあ…。たすけるんだとかゆうやってやってる精神、なにも行動しないより実践しているわけだけど、すてるという字のほうがたしかに、
本来の気持ちであるべきだなあと思います。

海外のとあるヨーロッパ(笑)にいたとき、募金箱に募金している日本の観光客のおじさんが、十円程度の小銭いれるとこ写真でとらせて、それをグループ全員撮影。


それだけでは終わらず、その募金箱もった女の子がかわいかったのも災いし、
べたりと体をくっつけて肩をだきよせてしっかりつかんでまた撮影一巡開始。

いくらなら、べたべたしていいというものでもないけど、十円だよ(笑)、なにを勘違いしているのでしょう。
気持ち悪いよ~?
助けてやってるとおもっているからだ。

その女の子はもちろん嫌そうだったが、なぜか、
「助けてやっているじぶんさま」と思い込む人は嫌そうな顔に全く鈍感で笑顔で上機嫌なのであーる。




その、いやがられてる写真使えないですよね~~(笑)


その、肩をだきよせべったり撮影のセクハラ募金おじさんグループにたいし、わたしは、とある行動をとりましたので、それは中断されました。
なにをしたのかはまたいつか書きたいと思います(笑)


わたしは、恥しかったよ(はずかしいの送り仮名、佐野洋子ふう)




話しはもどり、
それを聞いた佐野洋子さんは
「へー、インテリだね」と感心しながら答えています!?
本文を読むともっと暖かいんですけど、
全部かき写すわけにはいかないのが残念です。


あまりぱっとしない私の思い出はさておき、


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お盆休みに清涼感と安らぎを味わいたい方、<覚えていない>いかがでしょうか♪ほっとリラックスできて、すっきりします。

下の画像が、私の購入した新潮文庫の新刊、扉絵です。