源氏物語

2008.11.08 15:01:44

今年は源氏物語誕生1000年といわれている。
藤原道長の娘・彰子が1008年、一条天皇の宮を出産したお祝いに献上したのが源氏物語だった。

京都御所の東壁の真ん中辺りに紫式部の家がある。
三年前に行っ時、最近発見されたと聞いたが京都はまだまだロマンの宝庫だ。

道長といえば966年に生まれてから1028年までこの世の春を謳歌した策士である。
実の兄を失脚させ、娘彰子の子供を後一条・後朱雀、孫の後冷泉・後三条と天皇に送り、南北町時代から今、平成天皇までの血筋を作った権力者だ。

995年兄道隆とその子伊周(位は道長より高かった)を押しのけ、藤原氏一族を束ね、荘園から権力まで利権の棟梁たる藤原長者に成ることを天皇より許された。
やがては一条天皇の長子(道隆の娘定子の子)敦康(あつやす)親王を皇太子にさせずに彰子の子後一条天皇を跡継にするという前代未聞のことをやったのだ。

当時定子には家庭教師として清少納言がついていた。学問好きの一条天皇に取り入るために娘彰子につけたのが紫式部だったのだ。
紫式部はそのような時代、宮中の材料には事欠かない舞台で物語を書いていたのだ。

さて光源氏が物語の中で失脚するくだりがあったが確かこの例だけだ。
天皇の子でありながら失脚する、当時まだ9歳であったが誰にも悲運の皇子と認識していた子供がいた、さきほどの敦康親王だ。
予言は3年後の1011年、一条天皇が皇太子にたてられたことで的中した。
自分の血筋が生まれたことで、早速保険の役割としてしか価値の無かった彼は疎んじられやがて20歳で没した。
一女は後に後朱雀の中宮になったが子は出来なかった。

源氏物語に策士役の右大臣が登場する。
道長は自分の事だとうすうす感じてはいたが、おおいに喜んだという。
道長は毎晩のように紫式部の部屋に来ては原稿を催促していたというが、鎌倉時代の書物の中に道長女御紫式部とあるそうだが、寝物語に詳しく取材していたかも。

なんともうらやましい限りである、藤原道長38歳、紫式部28歳ぐらいの頃であった。