母の死

2009.09.10 8:49:29

昨日、お昼過ぎ突然の義姉の電話で母の死の一報が届いた。
満88歳になる母はとても元気で、9月12日、父の十七回忌を控えすべてを取り仕切り、遠くは広島・東京から兄妹四人全員が集まる予定で、電話ながらみんな一週間以内に会話を交わしていた。

お昼、短歌の会に出席の予定で、迎えに来た友人と家で団欒中、突然の心房細動による死だったらしい。

法事目的の姉二人は帯広空港に到着後知る事になる。
無常である、せめて9月12日を過ぎてからでも・・・。父の命日が葬儀の日となってしまった。

ガンで死んだ父の死を見送った時、準備のため一度家に帰る途中、母にこんな質問をした事があった「亡くなってから一時間も経っていない時だけど、連れ合いとして看取った気持ちは?」。「困っちゃったね」それが母の最初の言葉だった。
今電話の一報を受けた息子の最初の気持ちは・・と自分に問いかけた。電話が鳴ったのは、お昼のニュースを見た後CPに向かっていた時だった、「何で胸騒ぎでも良いから、知らせてくれなかったんだよ」そして「後三日待ってくれよ」だった。
シンガーソングライターとしては、かっこいい母への詩的な感情の言葉ではなかった。

会別生死は人間の常である、最後の親の死で、次は俺の番だな・・・と思うのも自然の成り行きかもしれない。

むかし、北海道新聞の夕刊に母の事を書いた。
最後にそのエッセイ「ラブレター」を呼んでください。

プラネタリウム 2001年2月8日 北海道新聞夕刊

ラヴレター
2月15日、私の母は満80歳になる。父を8年前にガンで亡くし、今一人、友人に囲まれて故郷の十勝にいる。
 数年前、おばあちゃんの誕生日を高校生の中学生だった娘と一緒に祝った。「今日はおばあちゃんの主役の飛騨からみんなで質問して話を聞く日にしようしよう」私の提案で話が始まった。
 娘時代のエピソードや実家の様子、戦争や結核で亡くなった兄妹の話に、子供たちはじっと聞いていた。
 娘から「おばあちゃんの青春時代の恋愛経験を教えて」との質問に、母は「お父さんが死んで一周忌も過ぎた事だしもういいよね、今まで誰にも話してない事なの」とほおを染めながら恥ずかしそうに語り始めた。
 父と結婚する前の母に、石川県の子供のいない叔母から見合いの話が持ち上がった。「しばらく遊びにおいで」それが母への誘いであった。
 養女として迎え、結婚させたい。叔母のそんな思惑とは知らず、紹介された跡継ぎ候補の青年はさわやかだった。あちこちの観光地を訪れながら滞在は三ヶ月以上にも及んだ。
 お互い趣味は山とスキー。話も弾んだ。白山登山に出かけ自然を心行くまで堪能し、二人しかいない山小屋に泊まり、彼は結婚を申し込んだ。母はどうしても決心がつかず結婚を断り北海道に戻ってきた。
 母の元にその後、青年から便箋十数枚に及ぶラブレターが届いた。滞在中いかに愛するようになったか、できればもう一度考え直して欲しいという内容だった。
 娘たちは目を輝かして話に夢中に聞き入っていた。「かっこいい。おばあちゃんたちのほうがすごいうらやましい恋愛をしている」。私も初めて知った母の青春に感動していた。
 まもなく娘たちも母の恋愛の年齢に近づこうとしている。母の誕生日にふと思う事、娘達にはこれからどんなかっこいい恋愛が待っているのだろうか。