加藤和彦

2009.10.19 13:38:07

フォーク・クルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」がオールナイトニッポンで放送されたのは1967年の秋の頃だっただろうか。
たちまち反響を呼び、12月東芝EMIから発売されると260万枚のヒットとなった。

ラジオでながら族だった私はその当時を振り返っても、音楽シーンの変化を体で感じていた時代だった。

「イムジン川」は発売前からラジオでは毎日流れ、ギターで歌えるぐらいまでになっていたのに発売が中止になった。「北の大地から南の空へ、飛び行く鳥は自由の使者よ」
この歌詞が、理由だと当時は囁かれたが、後で朝鮮総連がいろいろと難癖をつけたとも言われている。

その後、彼らは解散するのだが、はしだのりひこ・北山修・加藤和彦の3人は高校時代の私にとっては「あこがれ」そのものだったかもしれない。

加藤和彦が2回目の結婚で「安井かずみ」と一緒になった時も、びっくりした。
彼女はその当時の時代の先を行く女性として影響を与えられたひとりだったから。

当時、作詞家として「恋のしずく」・「何もいわないで」・「経験」と成功してた彼女が書いて新書館から出た本は斬新的で、今も手元にあるが「空にいちばん近い悲しみ」1970年、「空にかいたしあわせ」1971年はエッセイ本として私の教科書になった。

新書館からは他に「落合恵子」・「寺山修司」が本を出しているが、みんな青春のバイブル書になった。

安井かずみがガンで亡くなった後、オペラ歌手の中丸三千絵と一緒になったが、2000年に離婚し、とうとう62歳で自殺してしまった。

自殺の真相は誰もコメントなど出来ないが、トータルで眺めてきたものにとっては衝撃だ。
2002年頃、中丸三千絵と何度も飲んだことがあったが、体は小さいがワイン好きの豪快な女性だった。

彼女との結婚は業界では評判が悪かったが、それは周りの人間の言葉で、加藤和彦的にはひょっとして筋が通っていたように今は感じる。

二人の女性は年代も性格もぜんぜん違うのだが、生き方は一緒なのだ。
二人とも20代でパリとニューヨークに住み日本に帰ってからも、日本から世界に向け発信し続けてたところだ。

加藤和彦本人が一番やりたかったこと、それが出来た女に尊敬と憧れを持ち続けた。
特に中丸に対しては性格などは関係なかったのかもしれない。
「やることがなくなった」彼の最後の言葉は考えさせられる。

11月19日の紅葉

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