十勝の開拓者

2010.02.07 18:20:00

游北眠のお客さんから十勝の話になり、豊頃町・大津での話に花が咲いた。
彼は札幌出身だが仕事で廻るうちに大津での鮭漁に魅せられたという話だった。

大津は我が故郷浦幌と十勝川を挟んだ対岸で私にも思い出の深い場所でもあった。

酒を飲みながらの話である、そのときの話を3日経った今日思い出して冷や汗をかいた。
彼にすっかり嘘の話をしてしまったことを!

彼が、その大津が所属する豊頃町は「あの二宮尊徳の末裔が作ったんだってね」といわれた時だった。
私は「そうだよ、二宮牧場はそうだし、更に奥のしばれフェスティバルで有名な陸別も二宮が開拓したんだ、晩年で奥さんは無くなり、最後は相当苦労した」と話してしまった。

どうやら、私にも相当のボケの気配が巡ってきたようだ。
それが違うと、今になってふとした瞬間思い出したのだから。
そろそろ、気をつけなけばいけない。

さて本当の話は、
豊頃町に入植したのは二宮尊徳の孫尊親が明治30年、相馬地方の移民団15戸50数名を引き連れてウシシュベツへ移住し、『牛首別興復社』を設立したのは本当の話でございました。

尊親は、祖父尊徳にならい、開拓の基本を報徳精神におき、報徳訓や至誠・勤労・分度・推譲を厳守し、入植から10年間で、移民160戸958人、開墾した土地は844町歩(837ヘクタール)の二宮牧場を完成さたのでした。

さて陸別ですが、徳島出身の医者・関寛斎が明治35年になんと72歳で入植したのが始まりでございました。
彼の息子が札幌農学校を卒業した時に合わせて入植したそうです。
関寛斎は明治維新、上野戦争の時に官軍、幕府軍の両方を別け隔てなく治療したということで有名な医者でありました。

何故間違ったのかというと(笑)、たぶん関寛斎は二宮牧場の成功を聞き、入植前や途中何度も教えを請いに伺っていると資料に残っておりまして、そんな所がいい加減な酔っ払い記憶になってしまったと思われます。

ところで成功した二宮牧場に比べて関寛斎の牧場はうまくいきませんでした。
徳富蘆花を通してトルストイ主義に近づき、「平等均一の風」実現の農地解放へと向かったものの不作続き、しかも家族との対立などによりそれを果たせなかったのです。
10年後最愛の妻が倒れ、葬った丘の上の一本の木に下で服毒自殺した82歳の関寛斎の姿がありました。

悲しい開拓の物語です。
明日、二宮牧場の面白い話をします。