母の死Ⅱ

2009.09.15 12:31:07

今、札幌に帰りあらためて思いをはせた。
当然88歳という年齢は、女性の平均寿命であり、いつも別れる準備は出来ていたはずだった。
故郷に到着していろいろな状況を把握するにつれ人の死に方について考えさせられた。自殺や事故死は別として、自然な死に方にもいろいろある。
その場合、本人としては尊厳死を望む、との声は昔から言われてきた。
しかし、そこには医者の高度医療の発展や、家族の情の観点からもその場に臨まなければ実際はなかなか難しい問題もある。臓器移植にしてもそうだろう。

尊厳死協会に入っていた母にとっては、そんなことをいっさい煩わせない死に方だった。心臓発作を起こして倒れた時、意識から無くなったようだ、当然苦しみも無く、声すら発していなかったと目の前にいた友人が語っている。
救急車の隊員が偶然私の友人の息子であったが、彼も蘇生処置はしたけど、意識も脈も無かったと証言している。

亡くなった日の午前中、いつもと同じ朝を迎えていたようだ、自分の食事を用意し、炉には父の17回忌のために集まる我々4人の兄妹のための煮物が弱火でかけられていた。
まもなく我々に用意されたお返しの京菓子が宅急便で届き、着払いで支払いを済ませていた。昼食を済ませたところに短歌の会に出席するため友人が迎えに来た。

「17回忌に合わせて、集まる子供達に2度手間をかけなかったんだね」
「お父さんが迎えに来たのかね、命日の日に葬儀だなんて」
「自分が理想とする、最高の死に方だったんだね、苦しまず迷惑かけず!」
そんな話を聞きながら、私はせめて12日の法事まで生きていて、みんなと会ってからでも遅くは無かったと思っていた。

母は多趣味で、短歌を詠み、油絵を描き、書を習い、コーラスを現役で楽しんでいた。
また生け花は池坊の名誉師範として活躍もしていた。

「あと2週間ぐらいで仕上がる予定だった」とチューリップの絵を先生が持ってきた。
「筆を加えて完成させてあげるから」。
母はこの5年、毎年花の絵を一枚完成させてきた。コスモス・ひまわり・水仙・クレマチスの花だった。チューリップの完成をどれだけ楽しみにしていただろう。
その時、短歌の会から亡くなった日に届いた福沢さんの絶歌だよ、と届いた句を見て唖然とした。
母はもう二週間生きていたかったんだと!

絶歌 米子
「もう少し 生きて ゆきたい 油絵に
     チューリップ 束ねて 描くが 楽しき」

絶歌2.jpg