福沢家の歴史 第二回目

2008.10.27 15:15:17

福沢家の7代に渡る親戚を調べてから2年ほどして、名古屋にいる従兄弟から面白いものが見つかったっと知らせがあった。

それが前回紹介した横倉家の家系図だった。
昔の古い壷の中に丸めて入っていたそうだ。

横倉家とは石川県金沢市にあり、1943年(昭和18年)に死んだ私の爺様の時代、姉が嫁ぎ子供が出来なかったため福澤の長女(父の姉)を幼女にした家である。しかも養子をもらって跡継ぎとしたから福沢家が継いだ家である。

その家系図を見て驚いた!1600年代からの横倉家と福沢家の繋がりが面々と書かれていたのである。

それによると1590年代より深い親戚関係にあった両家は1614-1615年の大阪冬の陣、夏の陣では加賀・前田家の重臣として共に働き、福沢は冬の陣で落馬による減俸、夏の陣では功をあげて復帰の沙汰があったと記されていた。馬に乗る武士というのだから足軽ではなかったのだろう。

次に1639年の前田利治の大聖寺7万石立藩に伴い現在の加賀市大聖寺に移り、明治までそこに暮らしている。
移った頃、藩財政が厳しくなった折重臣となっていた両家は藩主にリストラ策を申し出、藩主の前で家臣を右と左に座らせ代表して両家がくじ引きをしたそうである。

その結果横倉が藩に残り、福沢は民間に降り白山の山の事業を一手に引き受けることになったのだ。今で言う民間への天下りであった。

両家はその後もお互いに助け合うことを誓い、まず娘を横倉の跡継ぎに嫁入りさせていた。その関係は1700年代にも見られ又福沢家にも嫁を貰い受けるなどして明治の代まで続いていたというから驚きである。

戦乱から平和の時代にくじ引きリストラの方法が行われたというのも実に面白いが、親戚同士を別々に分け、一方がその後も面倒見続ける、いや見続けたといのも凄いことである。

北海道開拓に伴い、爺様の初代源太郎は旭川の斉藤木材の帳場長(山師)として移民、後の大正初期根室本線の開通に従い、十勝の浦幌(釧路まであと70キロ)で独立している。
山の事業は加賀大聖寺藩で培った腕を北海道に生かす事業だったのだ。