福沢家の歴史 第三回目

2008.10.29 16:28:33

江戸時代までわかったがその前になるとさっぱり見当がつかなかった。
どのようにして加賀前田家に支藩とはいえ家老格の重臣として使えたのか。

東京のあるパーティーで福沢諭吉の末裔と名乗る女性に会った。
彼女は私の出身を聞いた時に、「じゃきっと同じ長野福沢の血族よね!」といとも簡単に答えた。

そんなことがきっかけで、彼の出自を調べることになった。

福沢諭吉は信濃の守護村上氏の末裔で村上信貞に従い足利尊氏に味方し建武の新政の時、1335年足利義貞を信濃で討ち果たしている。
その功で塩田城(当時は福沢城)の城代となりその後、武田信玄に追われるまで200年間城を守っていた。村上氏の家臣団の中に福沢顕昌とあるのが城代で今の上田市(真田一族)に居を構えていたようである。

1550年武田信玄の信濃攻略に際し、塩田城は破れ時の村上義清は越後の上杉謙信を頼って落ち延びた。
そこが川中島の戦いの始まりであった。

やがて福沢は再起を誓ってそれぞれ親戚や妻子を頼ってばらばらになり諭吉の先祖は小笠原貞慶が1990年松本城主に来た時に参陣したと言われている。
飯田家の家系にそのことが書かれている。
その後小笠原は中津藩主になったが1716年悪政による転藩・減封で8万石から1万石になり、1717年奥平家がやってきた時に優秀な家臣のみ仕官が適ったのだろうということである。

どうして九州の大分の福沢が長野と関係あるかがやっと判ったわけである。
戦国時代は小笠原家と共に武田勝頼についたこともあった。
真田一族も武田に追討されたあとしばらく群馬の上杉家臣の妻の実家に身を寄せていたが後に敵である信玄のもとで働いている。

ところで前田藩の当家福沢は1550年から1615年の大阪冬の陣・夏の陣まで空白である!
主君村上は1590年まで上杉に使えその後豊臣の会津に移転している。
又1580年柴田勝家の下前田利家・佐々成正は加賀・越中を上杉から取り上げている。
1582年本能寺の後1585年前田家が加賀を秀吉からもらった時には当然仕官していないと重臣に成れないのだ。
いい加減に結びつけるのも面白いが、もう少し調べる価値がありそうだ。

調べる過程で興味あることに出くわした!
なんと福沢という地名が全国に16箇所も見つかったのだ。
山形県・宮城県・福島県・千葉県・神奈川県・群馬県・山梨県・長野県3箇所・富山県・兵庫県2箇所・静岡県・岡山県・鹿児島県である。

そのほとんどが地形状からついた名前のようである。集落としては山梨・長野・静岡に限られるのであった。
最後に福沢川という名前が全国に4箇所もあった。
その中で行ってみたいのは静岡県天竜の川で福沢オートキャンプ場が作られている。
近くに滝もあり魚釣りには最高の場所のようである。