二宮牧場

2010.02.08 16:51:09

尊親が、祖父尊徳にならい二宮牧場を完成さたと昨日書きました。

今日は何故あの二宮金次郎事尊徳の孫が豊頃町を開拓したのかについて書きましょう。

二宮尊徳は江戸時代後期、現在の神奈川県小田原市で父母を早くに亡くし苦労の末、36歳のとき小田原藩に取り立てられ、藩主大久保家の分家である宇津家の領地の復興を成し遂げ、56歳のとき老中水野忠邦に見いだされて幕府に登用され70歳まで農村復興に一生を捧げた有名人でした。

二宮尊徳が亡くなった後、お世話になりすでに農村復興を果たしつつある相馬、中村藩は維新の動乱時に江戸から尊徳の家族を招き、領地を与えて丁重に迎えたのでした。

中村藩士で二宮の四大門人の筆頭となり尊徳の娘を嫁にした富田高慶と孫の尊親が明治10年「興復社」をつくり福島各地を開拓、やがて社長になった尊親が明治30年(1897年)豊頃に渡ってくるのです。

さて私の知人にこの相馬家の末裔がいまして岩村家(後で話します)とは従兄弟同士の親戚だということでした。
年齢から推察すると明治20年代両家の当主は子供の嫁を伊達家から戴くというという親しい関係にあったと思われます。

しかも伊達家は伊達市をはじめ札幌市の手稲や白石にも入植していました。

一方岩村家の当主は岩村通俊、明治4年(1871年)に開拓史半官として札幌市を今の碁盤の目に作り、やがて明治19年(1885年)北海道庁初代長官として北海道の開拓に努めた男でした。
岩村通俊の銅像は大通り、円山公園、旭川にあるぐらいです。

さてこの年明治19年、ようやく集団開拓の許可が最後の開拓地、十勝地方に下りることが決定しました。日本中の申請する場所はそれぞれの県、二ノ宮牧場の申請は福島県、そして許可を出すのは岩村長官です。

相馬家、二宮家、岩村家、そして伊達家、同じ時代に妙に近いところにいたと思いませんか。

北海道を中心に壮大な明治物語、「坂の上の雲」だけじゃないな、と思いませんか。

昨日の関寛斎も陸別に入る時、北海道を旅行するための馬車駅(駅逓)の役目も受けていたということです。
明治26~30年第4代長官に赴任した北垣国道が尽力、北海道一周鉄道を敷く事になり明治40年(1907年)には札幌・旭川・釧路まで繋がった時代でした。いろんな夢と現実の厳しさが交差していた・・北海道でした、僅か103年前、私が十勝で生まれる45年前のことです。